お盆のお墓参りで、蝶が寄ってきたのは?スピリチュアルな意味とは
こんにちは
天職実現マスターマインドコーチの
鈴木みつこです。
昨日は
お盆の入りで
息子を連れて
義父母と実父の
お墓参りをしてきました。
実父のお墓は
私が18歳まで生まれ育った
富士の裾野にありますので
車を運転しながら息子に
「ここが、母が子どもの時
通ってた小学校だよ~」とか
今はもうない
駄菓子屋さんの
跡地を見たりする中で
子ども時代に
タイプスリップしたような
感覚にもなりました。
私は実父が8歳の時に
亡くなってから
そこから
人の心や魂というものに
ことさら深く
興味を持つようになったと
感じます。
そして
大人・子ども
若年寄りみたいな
なんか自分の中には
老成した
古い魂のようなものも
あるような感じがしました。
生と死は
つねに隣りあわせな
感覚がありました。
死があるからこそ、
生が輝く。
今をどう生きるか、
真剣に考えるようになる。
私たちの魂は
永遠だけど
肉体をもって
今ここを過ごす
時間には限りがある。
辛いカナシイ
楽しい喜びも
すべてを味わい尽くす。
そして魂の糧にして
またあちら側に還っていく。
時間は有限
限りがあるのだと
感じました。
わたしはこれまで
実父や前の夫、
流産した子供たちや
祖父母、親戚、
友人知人など
50代も終わりに近づいてくると
それなりに
ご縁をいただいた人々を
お見送りする
お役目もたくさん遭遇してきました。
死とは
英語でいうと
transition(移行)なんても
いいますが
まさに、そんなふうに
すーっと、隣にある
透明の部屋に行く?
みたいな感覚もあるのでした。
そして
人はその人の寿命で亡くなる。
逆に言うと
寿命が来なければ
どんなことをしても
死ぬことはできない。
あのときこうすればよかった、
私が何をした、あれをした
逆に、何かをしなかったから
亡くなった、などど
「もし」は一切存在しないのです。
だから、たとえ誰かが
心のないことを言おうと
魂レベルでみれば
そんなこと
ちゃんちゃらおかしい。
もし自責の感情が
湧き上がってきたとしても
罪悪感にさいなまれる必要など
まったくないのです。
先に逝った大切な人は
きっと今も笑顔で微笑んで
見守ってくれているでしょう。
そんなことを考えていたら
義父母のお墓で
息子とお線香をあげようとしていると
スーッと
クロアゲハが
近くに飛んできました。
私にとって
蝶はいつも大切な
メッセンジャーであり
サインを伝えてくれています。
中でもクロアゲハは特別。
即座に、息子に
「わ~ じーじと ばーばが 喜んでるよ!」
と伝えました。
さらにあとで
調べてみると
こんなこともわかりました。
お墓参りで
蝶がひらひらと寄ってきた
というのは
亡くなった人がその蝶を使って
意思を伝えようとしていると。
そしてそれは
「供養をありがとう」という意味と共に
「ちゃんと成仏してるからね」
という、お知らせだと。
私はよく自宅の玄関などでも
「あ、サインだ!」と
なにか虫を見て 感じることが
あって、過去ブログにも書いてきたのですが
今回知ったのは
もしも成仏していなければ、
霊的な神仏の御遣いである虫である
蝶を使うことはできないとのこと。
成仏にも段階がある。
低い位置での成仏だったら、
もうちょっと先に進まないと、
蝶を使うのは難しいとのこと。
蝶を使って意思を
伝えてきたということは、
故人にそれだけの力が
あることを示している、
とのことでした。
とくに義父は
言葉が少ない人でしたが
非常に徳が高い人でしたので、
後から逝った義母もしっかり
守り導いてくれている
「だいじょうぶ、
こっちでげんきでやってるよ」の
お知らせだなと感じました。
そして
こんなふうに
先に逝った
大切な人たちからの
サインに気づいて、
語り掛けたり
さらに先へ進むために
供養と言うカタチで
なんらかの応援をしたり
今、肉体をもって
生きている私が
この自分自身の生き方、
いまここ 在り方を通して
最高の光となって輝くことが
暗闇にいたり
いっしょに光の道を進もうとしている
ご先祖様や先に逝った大切な人たちへの
最強の応援にもなるのかなと感じました。
生きている人もそうだし
あちら側に還った人もそうですが
わたしたちは誰もが
いま、肉体を持っている、
その時が来て 肉体を脱いだに関わらず
自分の魂の道に従って
一歩一歩 どこまでも
最高の自分を極めていく
光の道を進んでいるのだと感じます。
あなたは
今、最高バージョンの
自分に向かって
日々ワクワクと進んでいますか?
しっかりと着実に行動に移していますか?
あなたが今世
生まれる前に決めてきた
魂のミッションを思い出し
自分史上、最高に輝く
天職を実現することを
いつも心から応援しています!
鈴木みつこ